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zoom RSS 東日本大震災から2週間/自分自身の記録

<<   作成日時 : 2011/03/28 13:10   >>

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3月11日金曜日14時46分頃、東日本で発生したマグニチュード9.0の大地震が発生してから2週間が経過しました。
時がたつにつれて犠牲者の数が増えていき未曾有の大災害になってしまいました。
被災者のニュースを見るたびに気持ちが沈んでいき、原発事故のニュースではいらいらはらはらしていました。
地震発生の翌週は電車も間引き運転の影響で、毎日老体にむち打って自転車通勤をしていましたが、22日からは通勤時間帯はほぼ平常通りの運行に戻っているので、正常な通勤が出来るようになりました。

ブログのリンク先の人にも仙台の「ケイさん」や青森の「ロック仙人TFさん」がいるので心配でしたが、お二方とも無事だったことがわかり一安心しました。 ただ、ケイさんの実家が全壊し、お母さんが重傷を負ったということが心配です。 お母さんの一日も早い回復をお祈りいたします。


地震発生から、2週間を過ぎ、生活物資の不足などやや不便な点もありますが、ほぼ日常の生活に戻ったので、自分の周りの事を少しまとめてみようと思います。

その日、自転車で外出して会社へ戻る途中、交差点で信号待ちをしているときに地面が揺れ始めた。

 「あら、地震のようだわ。」と横断を待っている女性が言った。
 「ちょっと大きな地震のようですね。」とぼくも女性に言ったとき、揺れがどんどん大きくなって、地面がぐるぐると回るような揺れになってきた。
歩道にいた人たちは皆しゃがみ込み、ぼくはガードレールに自転車を建てかけ、街灯の柱につかまっていた。

 「こわーい。 ビルが倒れそう。」 と歩道の真ん中でしゃがんでいる女性が言った。
交差点の向こうを見ると広い通りに面して立ち並んでいるペンシルビルが揺れていた。 手前と奥のビルが左右反対方向に揺れているので、余計に大きな揺れのように感じ、本当にビルが倒壊するのではないかと思うほどだった。  

やや揺れが収まると、あちこちのビルから人が出てきて、歩道から車道にまで人で一杯になった。
しばらくして揺れが小さくなったので、人をかき分け会社へ戻ると、みんなビルの外に出ていた。
少し揺れが納まったと思ってビルの中に入るとまた大きな揺れが来て外へ。 結局しばらく外で待避することになった。

家族に電話をしようと試みたのだが、携帯は全くつながらず心配が募る。
夕方になってやっとつくば市の義母と連絡が取れ、とりあえず無事が確認出来た。 その後女房から電話が入り、娘も学校で待避していてこれから迎えに行くということだった。
我が家の被害は食器戸棚が開いて食器が割れたぐらいということで、ともかく家族の無事が確認出来て安心した。

電車は全て止まっているので歩いて帰ろうと思っていたら、同じ方角に帰る車があり何人かが同乗することになった。
6時少し前に会社を出たが幹線道路は途中から車があふれていてほとんど動かなくなっている。 どうやら隅田川を渡る橋の手前が渋滞しているようだ。 歩道は歩いて帰る人で溢れかえっていたが、車よりは確実に速く進んでいた。

かなり時間がかかって隅田川を渡り、幹線道路を避け裏道へ回った。 運転している人や僕も含めこの辺の道には詳しいので、裏から裏を抜けて進んだ。
思ったより早く、それでも普段の2倍はかかったが、最初の人を下ろし荒川を渡る橋まで来た。 ところが橋の上が全く動かない。 結局橋を渡るだけで1時間半もかかってしまった。
家に着いたのは9時半を過ぎていた。 たぶん歩いて帰ってもこんなに時間はかからなかったと思う。 ただ時間はかかったが歩いて帰ることを考えると確実に身体は楽だった。

翌12日土曜日はつくば市の義母の家へ。
利根川を越えて茨城県に入ると、あちこちの家の瓦屋根が落ちていた。 いつも通っている道も途中で通行止めで回り道をさせられた。 さらに進むと途中の橋も通行止めになっていて、今度は農道を使ってはるか遠くを回ることになった。
翌週同じ場所を通って分かったのだが、どちらも道路の陥没が原因だった。
つくばよりは東京の方が少しは安全ではないかと思い、義母を連れて東京へ戻った。 

帰り道、いつもガソリンを補給しているセルフスタンドに寄ると、鎖がしてあり「ガソリン不足のため本日の営業は終了しました」という札が架かっていた。 そういえばつくば市内を走っている時にスタンドに長い列が出来ていたので不思議に思っていた。
都内に入ると何軒かのガソリンスタンドは普通に営業していたので、この時点ではまだガソリン不足があれほど深刻になるとは思わず、「東京は大丈夫みたいだね。」 などと呑気に言っていた。 

14日月曜日、いつもの通り家を出たが、なんだか町の様子が違う。 しばらく歩いて、いつもなら多くの人が行き交っているのに今日は誰も歩いていないことに気がついた。 何気なく携帯を見ると妹から「電車が運休だよ。」というメールが入っていた。 道理で。 仕方なく家へ戻った。
今日から計画停電が行われるとのことで、ほとんどの電車が運休になっていた。
これだと今日はおろか明日からも仕事に行けない。 どうしたらよいだろう。

思い切って自転車で仕事に行くことにした。
早速服をジーンズに着替えて自転車で家を出た。
 
幹線道路に出ると、自転車、また自転車。 考えられないほど多くの自転車が都心に向かっていた。
ぼくもそれらに混じって走った。 幸い僕の自転車は6段変速。 速い自転車に混じって車道をひたすら走った。 
橋の登りにかかると、普段乗っていない悲しさ、ペダルを踏む足にも力が入らずどんどんスピードが落ちていって、他の自転車から取り残されて行く。
会社に着いたときは、もう足がぱんぱんになっていて、歩くと膝が笑うようだった。
部屋に入るとほとんどの人は出社していなかった。
自転車が趣味で普段から自転車で通勤している人、地下鉄が動いていたので来れた人、車で来た社長、それにボクだけだった。 昼近くにもう一人地下鉄で来た人がいて、結局その日は会社に来たのは5人だけだった。 

事務所に電池の買い置きが無かったのでコンビニへ行ったのだが、すでに電池は売り切れていた。
大坂の営業所に電話をして、電池と不足の懐中電灯を買って送ってもらうよう頼んだ。 しばらくして電話があり、大坂にも懐中電灯は無く、電池も単3しか残っていないということだった。

翌火曜日も自転車で通勤。
途中異常に長い車の列が出来ていると思ったら、ガソリン補給で並んでいる車達だった。 そんな列が途中に何カ所かあった。
その日はもうひとり自転車で来た人や、間引き運転の電車で来た人が3人増えたが、夕方になって計画停電で間引き運転の電車がさらに本数が減るということで、電車で来た人は早々に帰っていった。
結局、月曜も火曜も出社はしたものの、ほとんど仕事にならないような状態だった。

16日水曜日、通院予定があったため会社を休んで病院へ行った。 義母も普段飲んでいる薬が少なくなったので、一緒に連れて行った。
病院の帰り、車のガソリンも残り少なくなったので近くのスタンドを探した。
どこのスタンドもガソリン待ちの車で一杯という事だったので覚悟はしていたが、実際に並んだら1時間以上待たされた。
スタンドによっては給油量の制限をしていて、10リッターとか2千円分とか言われていたが、さいわいそのスタンドは給油制限をしていないということで、満タンで35リッター入れられた。

17日(木)と18日(金)も自転車で通勤した。 この頃になると足も慣れたのか、橋の登りも最初よりは1段は高いギヤーで上れるようになっていた。
電車通勤の人もほとんどが1,2時間遅れで出社するようになった。 帰りも電車の人は混雑を避けるために早めに退社をした。

19〜21日は3連休。
土曜日はつくばの義母宅へ足りない荷物を取りに行った。
つくばで買い物をしようとショッピングモール「イーアスつくば」へ行ったが、一部のスーパーなどを除いては全店閉店で工事の車が何台も入っていた。 他のショッピングモールや、いくつかのホームセンターも営業をしていなかった。
21日の彼岸は天気が悪そうなので、日曜日に両親と姉の墓参りをして、その後千葉県の妹の家へ遊びに行った。 本当は日曜日に行く予定だった義父の墓は遠いため、ガソリン不足を考え後日行くことにした。
やはり慣れない自転車通勤をしたせいか、体力的に相当参っていたようで、3連休は早めに床について最終日は昼頃まで寝てしまった。

地震から1週間が過ぎ、翌週22日(火)から24日(木)は電車もほぼ平常に動いていたので、いつもどおり電車通勤をした。
電車内はいつもの通勤時間とは思えないほど空いていた。 自転車と違い電車通勤は身体が楽だ。
僕が音楽を聴けるのは通勤時間の間だけなので、やっといつも通り音楽が聴けるようになったのだが、あまり気分がのらなかった。

通勤も順調になった23日(水)午後「東京の金町浄水場で放射性ヨウ素の値が基準値を超えた」というショッキングなニュースが飛び込んで来た。
先週は相次ぐ余震や原発の情報を知るためUSTREAMでNHKの映像を流しながら仕事をしていたのだったが、今週はチェックも止めていたので、ニュースを知るのが遅れてしまった。
事務所ではペットボトルの水を使用していたので、メーカーへ電話をしたが在庫はなく入荷の見通しも立っていないということだった。 あわててコンビニやスーパーへ水を買いに行ったのだが、すでになくなっていた。

25日(金)は娘の小学校の卒業式だったので、会社を休んで女房と義母とで出かけた。
卒業式終了後は校庭で記念写真を撮ったりした。
楽しそうにピースサインをして写真をとっている子供たちを見ていて、卒業式を前に津波で流されて亡くなった子供たちがいただろうことを思うと、安易に喜んでいて良いものだろうか考えてしまった。


地震から2週間の自分の周りの出来事でした。

今ではガソリンスタンドも平常どおりに営業していて、1週間前がうそのように普通にガソリンが入れられました。
今週も週末につくばへ行ったのですが、いまだに「イーアスつくば」は館内設備の補修のため休館でした。
春休みには毎年「東京ディズニーリゾート」へ行っていたのですが、地震による液状化被害の影響で休園となって再開の目処が立っていない状況です。
今年は春休みにいわき市の「スパリゾートハワイアンズ」にも行く予定で前売まで買っていたのですが、これも行けなくなりました。

いまだに余震が続いていて、なんだかいつでも揺れているような変な気分ですが、生活は平常に戻って来ました。
ただ、スーパーの売り場に品物がないことや、店や街の明かりが暗いので、まだしばらくは晴れた気分にはなれそうにありません。

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
拙宅も50年以上経つ木造の家なので、潰れるかとおもいましたよ!
年老いた親父を2階まで引っ張り上げるだけで、精一杯でした。
幸い棚の上の物が落ちて壊れる程度で済みましたが
リトルウィングさん宅は大丈夫でしたか?

そう云えばディズニーランドのパレードの時の打ち上げ花火の音が聞こえないですね。
ユニゾン
2011/03/28 17:55
ユニゾンさん、我が家も食器がいくつか壊れただけで住みました。 ただ普段使っている食器は何ともないのに大事にしていた方が壊れてしまいました。

ディズニーランドも浦安が復興しないうちは再開を控えているのでしょうね。
ひぐらし
2011/03/31 12:23
今回の地震は 同じ日に 違う震源地で さほど時間も あかずに起きたという 前代未聞の大災害でしたね。
あの日は大阪も少し揺れましたが 当初は このような有り様になるとは想像できませんでした。
ひぐらしさんの家が さほど被害にあわなくて 良かったです。娘さんも せっかくの卒業式だったのに 辛かったでしょうね。ディズニーランドは 地盤工事をちゃんとしていて液状化現象を免れたんですよね!
まり
2011/03/31 14:38
心配していただいてありがとうございます。

東京でも仙台でも女川でも大変は大変ですね。
仙台では最近になって満タンいれられるGSがでてきたようです。
オレは4時に並んで6時半に整理券を貰って8時に給油して出社しました。3000円分20リットルです。
2日並んで満タンにしました。
日曜に女川に行きます。
ケイ
2011/04/01 16:59
まりさん、今回の災害は地震そのものより大津波や原発事故などの被害の方が大きかったですね。
東京でも一時ガソリンがなくなったり、未だにペットボトルの水がなかったりと、いろいろ影響がありました。

ディズニーランドの再開が遅れているのは浦安の復旧が遅れているのが原因と思われます。
未だに不便な生活を余儀なくされている人たちを考えて、イベントは控えているのだと思います。
街が復旧すればいつでも行けるのですから今はじっと待っています。

ひぐらし
2011/04/08 13:12
ケイさんの家は被害が少なくて何よりでしたね。
女川のお母さんも怪我が思ったほど悪くなかったということを聞いてほっとしました。

東京は今では普通にガソリンが入れられ、あの騒ぎは何だったのだろうと思います。
まだ仙台はガソリン事情が悪そうなので、一日も早く正常に戻って欲しいですね。
そのためには東京の人も無駄に車を走らせないようにして、少しでも東北へガソリンが行くようにしなければならないですね。

まだ余震が続いているので、くれぐれも気をつけて下さい。
ひぐらし
2011/04/08 13:26

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